本題“自分はなぜここにあるのか”その0
では始めます。
“自分はなぜここにあるのか”この古くて新しい問いは誰でも一度は自分に問いかけたことがあるかと思います。一方で全く考えたこともない人も多いような気もします。今回は少し変わった話しと思って読んでいただければ幸いです。
“自分はなぜここにあるのか”についてニーチェはその著作の中でこの世界はこの「“なぜ”に対する答えが絶対的に欠けている」(道徳の系譜)と言っています。そして“自分はなぜここにあるのか”についても「ここ当分の間はわからない」という言い方をしています。
人間はなぜ存在するのか、この地球や太陽はなぜ存在するのか、そもそも宇宙はなぜ存在するのか、宇宙はビッグバンから始まって今現在も膨張していると言われていますがなぜこれらが在るのか・・・はわかりません。このなぜ存在するのかに対する答えがないということはその存在の意味さえも分からないことを指します。また全ての存在はそれぞれ一様に存在する存在であり、そこに上位も下位も重いも軽いもなく単に相対的なものに過ぎず、その存在には意味も価値もないことがわかります。かつて日本の首相が「人命は地球より重い」と発言しましたが存在そのものからすれば同等の存在でありどちらが重い軽いはないのです。
またこの意味のない存在について旧約聖書伝道の書では「空(くう)の空、空の空、いっさいは空」に始まり、あらゆる人間の努力の無益さと人生の無意味さ、さらに現実世界の不条理なることを語っています。
cogito〜変な話し
cogitoには“自分はなぜここにあるのか”と考えると言う具体的背景がありました。そうして考える自分を自ら意識すること、言いかえれば“自分はなぜここにあるのか”と考える自分を自ら意識するなかで存在すること、或いは存在することを意識することです。
cogito終わりでーす!
ところで・・・
引き続きcogito-変な話
デカルトはその真理の探究で、「全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)と」しました。(Wikipedia)
引き続きcogitoについてーー変な話
cogitoについてスピノザは「我は思惟しつつ存在する」と解釈しています。また『悪魔の辞典』で著者アンブローズ・ビアスはcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」)というべきであろうと書いています。何か単純じゃないですね。
(我思う)とは何でしょう?あっちのスーパーの方がこっちより安いわよ!とか、うちの子まだお嫁に行ってないのよ~とか(思う)こととは違うようです。
引き続きCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)は本当か?変な話
実はデカルト自身はそもそもCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)とは言ってなかったようなのです。
「これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]。デカルト自身も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。」(Wikipedia)
ありゃ・・・